看板

NOW_HERE2008-10-07

つい、この前だったような気がする。ここに日記を書いたのは。久しぶりに自分の日記を開くと、実は4か月も経っていた。▼時の意味を確定するのは、その時、その瞬間でないことの方が、多い。私の場合は。▼4か月前、私は2度目の復職にとても疲れていた。だが、その疲れは、今となっては大したものではないことがよくわかる。あのころはまだ、楽だった。▼4か月間、私は日記を記すことを、自らに禁じていたわけではない。あまりの余裕の無さに、書くことができなかったのだ。▼では、今日は余裕があるというのか?答えは否である。▼余裕というものは、時間が経ち、年を取るごとに無くなっていく。週末から昨日・本日にかけて体が悲鳴を上げた。▼後ろ手に、猿轡。病歴・症状と現実とのアンバランス。無理解と非難。周囲の勝手や思惑への怒り。深い悲しみは、自ずと五臓六腑に沁みわたる。▼「神は黙っている」と遠藤周作は言った。▼我が職場は、神の御心で建てられたという学舎。身を置けば置くほどに、「神などいない」という思いが、一途に強まってゆく。▼『沈黙』(遠藤周作)を読んでもう10年になる。狐里庵先生、ここには神などいません。▼さて、だからと言って、今さら絶望などという感情は持ち合わせていない。無感覚になるほど私は疲れました。▼キリストは看板です。クリスマスの時期になると、毎年正門の上に飾られます。要はあれなのです。▼そういう意味では、もう、どうでもよい人生なのです、狐里庵先生。私は、キリストという看板を、もう降ろします。▼「色キチガイ」の旗振って「南妙法蓮華経」と口ずさむ。それと同じくらいの「愚行」を、この看板には禁じえない。看板はただの道具に過ぎません。▼私が会いたかったのは、神でも、キリストでもなく、人間だったのだが。▼灯は隣人に点し伝えるものだと思っていたが、闇にあって隣人なし。自分の灯は自分で点けろ、と。