東北の春

NOW_HERE2008-04-20


たった3年間だけだが、私は山形市内に在住していた。▼大学を卒業し、都内で研修を終え、私が赴任したその年は、100年ぶりに5月に雪が降った。▼じわじわ凍みる階段を下りながら冬が深まるように、東北の春は、じわじわと階段を上っていく感じがする。▼首都圏にいると桜だ、チューリップだ、なんだかんだとワッと咲き誇る。▼ところが、東北では順番に咲いてゆく。ささやかな春の喜びが、首都圏よりも長く堪能することができる。▼東北の春はいい。凍みる冬の後は、本当に春のありがたさを感じさせてくれる。▼首都圏の華やかな春が、私は大嫌いだった。まぶしすぎるから。それだけにうっとおしい。▼ハレは私には似合わない。春が来るといつもそう思う。今年も実はそうだった。▼しかし、東北の春に出会い、ささやかな、のんびりと続く春もあることを知る。▼大嫌いだった春も、悪くない。今日は三春の滝桜が満開だとのこと。イチロー君、滝桜を目にすることはできましたか?

「アンフェア」と感じるのは誰か?

NOW_HERE2008-04-14


極端なことを言います。世の中に、アンフェアはないと思うのです。▼昨日は、雪平警部補調で茶化して書きました。そこに私の本音はありません。▼読者の中に、万が一刺さってしまった方がいらしたら、それはそれで...。別段私はあなたをアンフェアであるとは思いません。▼私に「蓮見」ほどのPC技があれば、それで飯が食えると思います。IPアドレスなど探し出すのは、大変なことですよ。私にはできるわけありません。▼もう一度言います。アンフェアはない、と。あるのは目の前の状況だけです。▼その状況をアンフェアと感じてしまった。それは誰なのか。それが問題なのだと思います。だから『アンフェアなのは誰なのか?』ではなく『アンフェアと感じたのは誰なのか?』に焦点を当てるほうが良いのではないでしょうか?▼私自身、アンフェアだと感じることはままあります。▼で、どうします?......そんなこと、時と場合によります。▼ただし、あの人がアンフェアなのではなく、私があの人をアンフェアだと(勝手に)感じているのです。▼そこには普遍的アンフェアがあるわけではないと、これからは思うでしょう。森田療法(≒認知行動療法)の効果です。▼今の私には、アンフェアだと感じる機会が、とても少ないです。それは、今の私に、将来の「夢」や「希望」がない、その代償なのかもしれません。▼ゆえに今は気持ちはフラット。いいです。アンフェアな気分に囚われ続けるのも大変です。▼だから、ドラマ「アンフェア」は、たかだか80億円で新警察創設を! などと本気で考え、人まで殺して、実行してしまう、そんな登場人物たちにとてもしらけてしまうのです。▼お前ら、殺し、殺される前に、森田療法受けろよ、と。慈恵医大紹介します。

事後談

NOW_HERE2008-04-11


NHK放送文化研究所長をしているSさんは、NHK時代私の最後の上司だった。つまり、私は彼に辞表を出したのだ。▼昨日記したとおり、彼は慶應図書館情報学を修めている。我々一介のディレクター(「踊る」で云えば所轄みたいなもの)からすると、管理者としては優秀なのかも知れないが、モノを作るセンスのない人物に見えた。▼だから、彼には「名作」がない。どんなに小さな番組でもいい、拙くても、荒削りでもいい、人に「名作」と言わしめる番組を、ディレクターなら作ったことがあるはずだ。しかし、彼にはない。▼なぜか? 彼は編成畑を歩いてきたからだ。地べたを這いつつくばって番組を作る機会が少なかったのだ。若い私には、十分に軽蔑の対象だった。番組制作局にいて番組を作れないヤツは阿呆だと思っていたからだ。▼今の職場には、NHKをやめてから2年半後にたどり着いた。経験者採用というやつで、400人くらいが応募したらしい。書類で40人ほどに絞り、筆記を受け同じ日の午後に集団ディスカッションと個別面接を受けた記憶がある。▼ちょうど体育館を壊し、今の8号館を建てようとしていた時だった。面接会場は9号館の別館2階だったので、工事用のフェンスに囲まれた狭い通路を歩いたのを覚えている。5月下旬の暑い日だった。▼そこで、面接試験のリードをしていたのが、Uさんだった。UさんはMr.ライブラリアンとの異名をとるほど、図書館勤めの長い方で、途中入学センターに抜けたことはあるものの、今も図書館の「長」として君臨されている。▼何を隠そう、このお方と、私が辞表を出した上司が同窓の仲なのだということを、後から知り、ゾッとした。慶應図書館学専修恐るべしだ。▼転職したての頃、小径ですれ違ったとき「Uさん今度飲みに行きましょうよ」と誘ったら、「私はそういうのは好きではないから」と断られた。別段何とも思わなかったが、次の言葉がずーっと私の心に引っかかっていた。「でも、食事でもしながら職員処世術の話ならできるよ」と。▼最近、よく職場のHPを隅から隅まで読んでいる。ボランティアセンター長の言葉が、身にしみた。曰く『強度の主体性、自発性は時に自己中心性に陥りかねません。よかれと思って行うことでも、それが相手への配慮を欠く』と。私のことである。▼「名作」などいらないのかもしれない、と、最近よく思う。それはホームランがいらない少年野球にも似ている。辞表を出した上司はなるべくして放送文化研究所の長になったのだろう。Uさんのいう「職員処世術」にもすでに真っ向から反感を感じることはなくなっている。▼「いい加減」になってきたのだ。心の風向きが変わりつつある中で、復職の時を迎えることができることに少しだけホッとしている。まあ、これからが大変なのだけれども。▼辞表上司のご子息はわが職場の「付属」の高校に入学されたと年賀状で知らされた。私が礼拝堂勤務の時、毎年のようにヤコブ文庫(応募すると抽選で読みたい本を贈られる制度)に書類を出していたので、名前だけは知っていた。▼その後、学生関連部署に異動になったとき、彼は私の前に現れた。見てすぐに彼と分かった。親父さんと瓜二つなのだ。▼そんな彼も、私が休職している間に、とうに卒業されているのだろう。今頃彼は何をしているのだろう。そこでいやな予感がするのだ。まさか、経験者採用で入ってきやしないよな、と。

詐病説

NOW_HERE2008-04-10


1996年夏、息子が生まれてすぐ、私はアメリカはポートランドに飛んでいてた。ピープル・ファーストの取材・ロケのためだった。▼ピープル・ファーストとは「障害者である前に人間だ!」とよく訳される。カナダ・アメリカで端を発した「知的障害者」の自立運動である。▼当時、四国学院大学にいらした先生と、慶応義塾の先生とに事前取材をし、結局慶応の教授と同行取材することになった。▼その選択は失敗だった。教授は妻を同伴させよというは、知的障害者は研究対象でしかなく、彼らに寄り添う精神など微塵もないことが、アメリカに行ってから気がついた。人を見る目が、私にはない。▼若い私は宿泊先のマリオットホテルのロビーで食って掛った。大喧嘩の末、彼は帰るという。私は日本に電話をし、デスクに相談するも、彼もかつて慶応の輩(金子いくよう)にひどい目にあっていたので、貨物便で「返しちまえ」といわれた。▼しかしチーフプロデューサーが許してくれなかった。こんな糞みたいな知的障害者を食い物にする人間にご出演いただかなくても番組は成立した。それでも、最後まで同行ロケを続けろと命じられた。▼このチーフプロデューサーは何のことはない慶応(文-図書館情報学専修)の出身で、今はNHK放送文化研究所の所長をやっている。こういう人がうまく出世するのが組織の要諦。▼人として正しいことをすることと、組織人として正しいことをすることは、まま乖離しがちだ。うちの職場もそうなのだろう。▼ちなみに四国学院大学のピープル・ファースト第一人者は、その後わが職場の教授となり、組合の執行委員時代に委員長を務め、組合部屋で再会したのであった。▼そして、そこで私は慶大教授がすでに昇天されたことを彼から知らされた。▼人生なんかそんなもんだと決め込んで、人をこき下ろし、足を引っ張り、押しのけ、手に持てるだけの物を抱え、しらっと開き直って生きる。誰にも気づかれぬうちに。もっといいのは無自覚のうちに。▼私はそういう人間に、なれるものならなってみたい。今よりは楽しいだろうか?いや、それだけはご勘弁被りたい。▼アメリカへの旅には日本の「知的障害者」も同行した。「知的障害」もいろいろだ。普通に話せて、普通に行動できる、「軽い障害」を抱え、しかし、生活や就業には支障をきたす、そんな方がいらした。▼彼が一番辛く思っていたことは「知的障害者」の振りをして福祉制度にただ乗りしているのではないかと、周囲にささやかれることだった。▼今の私には彼の気持ちがよくわかる。だれが好き好んで病になろうか。彼らの、私の詐病をささやく者は地獄へ堕ちろ、ただひたすらそう思う。▼しかし、残念ながら復讐は私の仕事ではない。そんな暇があったら私には他にすることがある。復讐は神である私に任せておきなさい。職場の礼拝堂に置いてある聖書にはそう書いてある。▼しかし、私にはその聖書は、ただの装飾品にしか見えない。▼今夜、そうでないことを祈って、眠りに就こう。

疾風

NOW_HERE2008-03-28

今年も庭の桜が咲いた。昨日ちらほら始まったなと思っていたら、今日はアッという間に五分咲きになってしまった。アッという間の40歳と重ねる。▼4年前から医者の世話になっている。アッという間の4年だった。4月の半ばから医学的には復職の許可が出た。▼出たり入ったりの仕事で、復職と休職を繰り返した。▼これは、最後の復職になる。あとは職場がどう受け止めるかだ。それも、自分の気持ちと態度ひとつなのだろう。▼最初は、ゆっくり余裕を崩さず、他者への誠意は忘れず、ぶれずに。まずは三ヶ月無事に過ごしたい。▼家の2階、部屋に寝転びながらのひとり夜桜見物。とてもありがたい気持ちにさせてくれる。▼しかし、花は、咲くそばからもう散り始めている。花の人生は短い。花だけではあるまいに。時は流れ、物事はアッという間に移りゆく。これからの季節のように。

西行 (新潮文庫)

西行 (新潮文庫)

使命感

NOW_HERE2008-03-08



なぜ生まれてきたのか、何のために生きるのか、という問に別れを告げた。▼生の方向から使命感を見出すことはできない人種であった、私は。むしろ死の方から見つめるタイプなのだ。始まったからやるのではなく、終わりがあるからできるのだ。▼とすると私には絶対的に死は必要となる。ただし、その死は、自死を除く。他者のそれは事情によっては認めるが。▼まるでソビエト社会主義共和国連邦クレムリンノーメンクラツーラの如く、計画経済を綿密に作成する能力が、私にはからきしない。▼その代わりと言っては何だが、その場をしのぐことは長けている。▼どっちがいいか。ほとんどの人たちはノーメンクラツーラ(超官僚)の方を取る。格好良いしね。▼何度も言うが、今、私が生きているのが不思議でならない。▼昨年の5月からまともな収入はない。労働をしていない。▼とっくに生活など成り立たない身分であるにも関わらず、支えを受けて(とっても迷惑に思っている方々は多いが)、生きている。▼そこで、先日記した、「何で死なないんだ?」となる。▼そこでとても都合のよい考えが浮かぶ。まだ死ねない理由があるのだろうと。▼私が果たさなければならないことがあるのだろうと。▼で、それはいったい何なんだよ、教えて神様(ハート)なんて、かつては思っていたものだ。▼しかし、使命なんていうのは自分が歩いた後ろに見えるものなのだろうと思うようになった。▼使命は私のはるか先にあって、そこに向かって歩いていくことだと、私は勘違いしていた。▼そうではないのだ。使命は目の前の一歩を踏みしめた、その一歩一歩の足跡でしかないと。▼しかも、その足跡ははじめからどこどこへ向かうなどと、一切約束はされていないのだ。▼使命とは、遠くに輝く灯ではなく、私の背中に連なる道のことだった。